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【教授インタビュー】〜ビジネスの世界から教授に~ 藤本雅彦教授の歩み

【教授インタビュー】〜ビジネスの世界から教授に~ 藤本雅彦教授の歩み

今回インタビューするのは、大学院経済学研究科教授を務める藤本雅彦先生です。ファーストキャリアとして民間企業に勤めながらも、その後大学教授というアカデミックな世界に身をおく藤本先生。どのような想いや背景があって、ご自身のキャリアを歩んでこられたのか、その過去と現在に迫りました。
​#1では藤本先生のファーストキャリアの選択と活動を中心に掘り下げ、#2では転職後の会社でぶつかった壁と苦悩について聞いていきます。そして、#3では現在注力されている地域イノベーション研究センターの取組に加え、地方のビジネスやキャリアに対する藤本先生の考えを展開しています。

社会学者になりたかった学生時代

ー初の教授インタビューという事で、どんな話をお聞きできるのか非常に楽しみです。よろしくお願いします。

はい、よろしくお願いします。

ーそれでは早速質問に入らせていただきます。まず藤本先生の学生時代の様子や、ご自身のキャリアに対する当時の考えをお聞かせください。

学生の頃は、山登りばかりやってましたね。結構色んな山に挑戦してました(笑)。教育学部に所属していて、社会学専攻だったので、その研究にも力を入れていました。

最初は教育に関する心理学をやりたかったのですが、教養部から学部に上がったタイミングで(※当時は教養部と学部が別々)社会学に出会って、そこから社会学という学問に引き込まれましたね。
実際、当時は社会学者になろうと本気で考えていたので、キャリア選択としての就職活動は全く考えていなかったです。

大学時代、山でスキーをする藤本教授(左)

ー最初は社会学者を目指されていたんですか。藤本先生はリクルートのご出身とお聞きしていたので、意外でした。就職という道を選んだきっかけは何だったんですか?

リクルートでアルバイトをしていたのがきっかけです。当時私は、リクルートの単発アルバイトに偶然参加していたのですが、実はそれが会社の行うリクルーティング活動だったんですよね(笑)。

私はそれを知らなくて、お金を稼ぐためだけにバイトしていたんですけど、しばらくやっているうちに会社側から声をかけられて。
気付いたら長期アルバイトに形式が変わり、社員とご飯を食べに行くようになって、その度にリクルートの話を聞いて説得されていました。

ー完全に入社を迫られてますね。

正直自分は美味しいものを食べるために行ってたんですけどね。だから気が緩んで呑みすぎたりもして。ある時人事課長とご飯に行った際に、酔った勢いで人事課長を殴ってしまいました。

ーえ、殴ったんですか!?それはまずいです…

もちろんその後東京まで謝りに行って、それで何とか許してもらうことはできました。
その後、またご飯に連れて行ってもらったんですけど、行った先の飲食店にリクルートの役員が偶然いて、役員と話をすることになったんです。

そこでも私は、社会学者になりたいから就職する気は全くないと伝えたんですけど、「一回社会を経験した後に、社会学者になればいいんじゃない?リクルートは1年で5年分の経験が出来るし、1年だけ修行してから退社してもいいよ」ということを言われて。ここで初めて、そういう考え方もありだな…という思いも出てきました。

帰りの新幹線では、本気で自分の人生について考えましたね。結果的には、この新幹線の中でリクルートに行くという決断をして、入社することが決まりました。

【藤本 雅彦 】
1959年北海道生まれ
1983年 東北大学教育学部卒業、株式会社リクルート入社
1993年 株式会社サイエンティア取締役
1999年 (東北大学大学院経済学研究科博士課程後期修了)
2004年 東北大学大学院経済学研究科助教授 
2007年 同 教授
現職 東北大学 総長特別補佐 / 大学院経済学研究科教授 / 地域イノベーション研究センター長

今、自分達に何ができるか

ー色々な巡り合わせがあったんですね…。入社後はどのような仕事をやられていたんですか?

リクルートの人事教育事業部(現リクルートマネジメントソリューションズの前身)というところで、大手企業の教育研修や活性化を図るための法人営業をしていました。

実は入社一年目で結構売れて、個人としての業績がよかったんですよね。それでも一年でやめると決めていたので、1年後は、社会学者になるため大学院に行きたいことを上司に伝えました。

上司からはもちろん反対されたんですが、やめるのは前から決めてたことだし、人が多い東京の暮らしにもけっこう疲れてきていたので、やめたい気持ちはやはり強かったです。ただ会社側は辞めてほしくないみたいで、東京から東北に転勤していいから、その代わりやめないで働き続けてほしいという条件を出してきました。

非常に悩んだのですが、そこまでしてくれるならという事で、転勤の条件を引き換えに働き続けることを選んで、ここで学者の道はきっぱり諦めました。中途半端ではなく、本気でビジネスの道で生きていくことを決めたのはこの時です。

リクルート東北支社時代の藤本教授

ーここで大きな決断をされたわけですね。東北に転勤されてからはどんなことをやられていたんですか?

東北支社に来てからは、リクルートブック(採用:現在のリクナビ)に関わる仕事を4年くらいやっていました。ここでも営業の成績がぶっちぎりでよかったので、入社して4年と9カ月くらいで課長に昇進したんですよね。

ただ、課長になってマネジメントの難しさを感じ始めているときに、あの“リクルート事件(※1988年 リクルート関係者による贈収賄事件)”が起きてしまって。色んな会社にお詫びに行くという日々が続きましたね。

この事件でもちろん会社は大打撃を受けたし、当時課長だった私はメンバーが動揺しないよう、チームをマネジメントする必要がありました。そのため毎晩チームメンバーと仕事終わりに飲みに行って、自分たちが行う仕事の意義や誇りについて、また東北という地域に対して自分たちができる貢献について、深く議論し合ったのを覚えています。

地域にどう貢献するかという考えは、今の仕事(地域イノベーション研究センター)に繋がってる部分もあるので、今思えば自分にとって価値ある経験ではあったのかなと思っています。

引用(http://tohoku-genki.com/1478

道のりは一つじゃない

ー課長になっていきなりその様な経験をされていたんですか…。その後はどのようなキャリアを歩んでこられたんですか?

しばらく東北支社で課長職をこなしてからは、東京本社に呼び戻されることになりました。ただ、今までの働き方が嘘のように、東京での仕事が自分に合わずやることがなくて、いわゆる窓際族になったんですよね。(笑)

ーえ、働き方が一転しましたね。

はい、東京は人が多すぎるし、本当に自分の居場所がなくて、実をいうと会社をさぼったりもしていました(笑)。仕事に対するやりがいも徐々になくなっていったので、辞表を持って半年くらい過ごしていましたね。この時は自分のキャリアについて、ほんと悩みに悩みました。

自分のこれからの人生どうしよう…って。ただそんな時、家族の存在に気付いたんですよね。
当時は既に結婚して子供が二人いたので、仕事をあまりしなくなってから、妻や子供達と過ごす時間が増えていたんですが、そこで家族の大切さを改めて感じさせられて。

このままの状態じゃだめだと思い、キャリア転換することを決めたんです。転職活動をする中で、縁あってリクルート時代の私の恩師がいた安比高原のリゾート関連会社に転籍させてもらって、30歳から2年間そこで人事課長を務めました。

ーここでキャリアチェンジされたんですね。

まぁその恩師が会社を辞めるタイミングで、2年後に私も退社したのですが、次はどんな働き方をしたいのか、ここで再度考えました。

色々幅広く考える中で、ヒト・モノ・カネ・情報のうち、自分はヒトのことは大体わかるけど、これからの時代は情報をもっと深く知ることが重要だなと思ったんですよね。

それでヒトと情報に着目した結果、情報システム系のことをやってみたいと思い至って、サイエンティアというリクルート時代に顧客だった仙台のIT系企業の経営者に相談しに行きました。ただ相談しているうちに、経営者の方から“そういうことやりたいならうちに来ないか”と誘っていただき、自分のやりたいこととも一致していたので、32歳の時サイエンティアに取締役として入社しました。

引用(http://tohoku-genki.com/1478

知識と時代の掛け算

ーなるほど、今までとは異なる業種ですね。

そうですね、経営サイドで参画したものの、入社当時はITのことは全く知りませんでした。しかも不幸なことに、私が入社して半年~1年後の90年代半前半に、ITバブル崩壊が起こったんですよね。

汎用機やオフィスコンピューターなどが一気になくなって、クライアントサーバーにとってかわられたので、今までのIT業界の形が大きく変化したんです。そのためソフトウェア会社の倒産が相次ぎ、仕事が一気になくなっていきました。

それでサイエンティアも、業績の見通しが段々と立たなくなってきて、どうしようか…となっているときにIT業界の中で“パッケージ”という概念が出てきたんです。

※パッケージとは
関連するさまざまな要素を1つにまとめ、特定の業務用に作成されたプログラム群のこと。

そこで私は、今までの人事管理の知見を活かして、人事情報システムのパッケージを設計してみました。すると幸いなことに、これが成功したんですよね。丁度、人事制度の改革の時代だったので、市場のニーズも相まって、大手企業だけでなく全国の国立大学にも順調に拡大していきました。

ー当時にしてみれば、かなり目新しいものだったんですね。

はい、時代の波に乗れたのが大きかったですが、開発当時においては、新しく画期的なものだったと思います。ちなみにその後は、ビジネスの世界で“事業戦略”という考え方が重要になってきたのですが、人事部が戦略を考えられないという課題も生じてきて、この人事戦略を考えるうえで、アカデミックな裏付けが必要になってきたんですよね。

理論やコンセプトを作ってパッケージを差別化していくためには、このアカデミックな視点がどうしても必要でした。それでこの視点を学ぶために、東北大の大学院にいくことになったんです。

限界を超える

ーあ、ここでようやく東北大学が登場するんですね。

そうですね、まさかまた来るとは思いませんでしたが。
ちなみに経済学研究科の大学院では、当時は経営労務論を担当していた先生の研究室に入りました。ただこれが自分の想像していたものとは違っていて…。

ーと、いいますと?

内容が“バーナードの経営者の哲学”を学ぶというものだったんですけど、これがまたすごく抽象的なんですよね。学問としては別に嫌いなわけじゃないのですが、当初の目的である“人事戦略”とは少し異なるものなので、入学した後に選択を失敗したな…と思いました(笑)。

ーなるほど(笑)。大学院に入ってからは、どのような生活を送っていたんですか?

とにかく移動ばかりの生活を送っていました。進学後も仕事は継続していて、当時全国の国立大学に出張することが多かったので、実は交通の便を理由に札幌に住んでいたんですよね。
その関係で、大学に行くにも出張するにも、飛行機で移動しなくちゃいけなくて。会社負担とはいえ、年間数百万円は交通費に使っていたんじゃないかな…(笑)。

ーそんなにですか!?恐ろしくハードな生活ですね。

体力的にかなりしんどかったですね。その後修士課程を終えて、ドクター(博士課程)に進学するか迷ったのですが、頑張り次第ではドクターを2年で卒業することもできる(本来は3年)という事を先生に教えてもらったので、その前提で進学しました。そこからはさらにハードになりましたね。

全国を回りながら法人のコンサル業務を行い、移動時間などは論文執筆に当て、先生に論文の添削をしてもらう、そんな生活を繰り返していました。

夜の接待などの後、宿泊ホテルに戻ってサウナでお酒を抜いてから、明け方近くまで指が動かなくなるまでは書いて、そこでようやく寝て、起床したらまた執筆を始めるみたいな感じで(笑)。ただ当時行っていたコンサル業務の延長で、色んな企業の事例研究は仕事の延長線でできましたから、人事戦略を考える上でこの時の経験は非常に貴重だったと思います。

どん底からのV字回復

ーもう倒れないのが不思議なくらいの生活ですね。その後、2年で学位は取得なさったんですか?

はい、2年という早期で学位を取得しました。この時39歳(1999年)だったかな。ただドクターを卒業した後からがまた大変でした。この時くらいからパッケージソフトのベンダーが勃興してきて、競合他社が増えてきたので、既存の商品力も落ちてきたんですよね。

要するにパッケージが売れない状態になりました。サイエンティアの創業者も2000年に病気で亡くなってしまったので、組織的にも経営体制を立て直す必要があって、会社倒産の危機に陥ったんですよ。

ー危機的な状況が再び…、どのように対処されたんですか?

悩みに悩みました。考え込みすぎて、デパートに家族と行った時(当時40歳)、3000円支払って占ってもらったくらいです(笑)。生まれて初めて、占いにお金払いました。

ー結構メンタル的に追い込まれてたんですね(笑)。ちなみに占いの結果は?

これから2,3年のうちに運気があがって、金運もあがると書かれていました。どん底だったので、正直この時はちょっとだけ気を取り直しましたね(笑)。

そのおかげで新たな人事情報システムを構想できたんですよ。現場の末端組織の上司が部下の人材マネジメントを支援するための人事情報マネジメントをweb上で行えるようなパッケージを作ったんですが、これが幸いにも上手くいって、新たな市場を開拓することに成功しました。
このパッケージが様々な会社の人事に絶賛されて、社会的に高い評価を得ることもでき、最終的には会社をV字回復することに繋がりました。

ー2回目のV字回復ですね。

パッケージのバージョンアップで色々トラブルはあったんですけど、なんとかうまく軌道に乗りました。ただビジネスが忙しくなっても、相変わらず全国を飛び回る生活は続けていて、40歳を超えたこの時くらいから体力的にしんどくなってきたんですよね(笑)。

ちなみに当時は、学会に参加したり、東京の大学で非常勤講師を週一回やったりもしていました。そうこうしているうちに、お世話になっていた東北大の先生から、大学で経営組織論の教鞭をとらないかと誘われたんですよ。

ただ当時会社で展開していたパッケージのコンセプトを作ったのは自分だし、組織体制は私と代表取締役で共同経営という形をとっていたので、会社を離れるわけにはいかなくて、一回この話はお断りしたんです。

ーあ、一回は断られたんですか。

はい、しかし偶然にも、2004年に国立大学が独立法人化されて、会社の仕事と大学の教官を兼務できるようになったんですよ。それなら大学の先生になろうということで、大学で経営組織論の教鞭をとり始めて、2年後に教授になりました。

東北地域に革新を

ー時代背景にも恵まれたんですね。藤本先生は教授職の他にも色々な活動をやられているイメージがありますが、現在はどんなことに取り組まれているんですか?

通常の研究・教育活動をやりながら、総長特別補佐として東北大学の本部機構に関わったり、地域イノベーション研究センターのセンター長を務めたりしています。
総長特別補佐としては、人事や組織論の知識を活かして、東北大学の事務業務改革に注力しているところです。ただ現在は、地域イノベーション研究センターの仕事が、大半を占めていますね。

ー地域イノベーション研究センターでは、どのような活動を行っているんですか?

地域の“調査研究”と“人材育成”がメインですが、震災以降は近隣の大学の先生や公的機関も巻き込みながら、東北の復興・創生に向けた活動を行ってきました。

東北地域の問題や課題を様々な角度から20近いプロジェクトを進めて調査研究して、5年間は毎年それを総括して本にまとめてきました。

現在の調査研究は水産加工業に特化して、調査研究をやっています。東北経産局と組んで「これからの三陸沿岸の水産加工業がどうあるべきなのか」という政策やビジネスモデルを考えているところです。北海道から九州まで全国各地の水産加工会社を調査して、調査研究プロジェクトを進めています。

ーなるほど、人材育成の方はどのような取り組みを実施されているんですか?

地域の人材育成の方では「地域イノベーションプロデューサー塾」という、地元の中小企業経営者に対して事業イノベーションを支援していく取り組みをやっています。

新規創業者や既存の事業を革新していきたい人が集まって、講義だけでなく、実際に事業化まで支援しています。また、地域の金融機関などの支援者も一緒に育成して、彼らを巻き込みながら地域イノベーターの輩出に力を入れていますね。

震災の翌年の2012年から開講して、卒塾者は事業革新者が200名程と支援者が100名程いるのかな…。卒塾した中小企業経営者の中には上場を目指している人もいて、卒塾後も継続的に支援を続けています。こうした取り組みが社会的に評価されていて、全国でも注目を集めているところですね。

薄いからこそ濃縮する

ー長期的にみても非常に価値ある取り組みですね。今後最も注力したいのはどのような点でしょうか?

入塾者の募集に力を入れていきたいです。はっきり言って、やる気がある能力の高い経営者を集めれば、成果は出るはずなんですよね。だから、そういう人材を獲得していくために、応募者をいかに集めて、入塾してもらえるかを真剣に考えています。

ー今お話しいただいた地方ビジネスにも関わる事なのですが、地方と東京などの都心では情報格差や機会格差が大きいという問題があります。
この点についてはどのようにお考えでしょうか?

距離的にその問題が生じるのは、仕方ないですよね・・・。重要な情報や機会を得るために大事なものは「人的ネットワーク」だと思いますし、本当に重要な情報はネットには載っていないので、ヒトとの繋がりや信頼の上で流通するものです。

その意味で、東京の方が人と接触する確率が高いため、新しい発想やビジネスが都会で生まれてくるのは仕方がないと思います。

まぁ…だからこそ、人的ネットワークが薄いなら濃縮すればいいじゃないかという考え方が大事だと思っています。有能な人との接触の機会が少ない地方の環境で、地域イノベーション研究センターをやる意義は、まさにここにあるんですよね。

やる気があって能力のある人を集めることで、様々な意見交換やアライアンスが生まれるし、多種多様なビジネスが派生する機会になっているんです。こういう風に、人材が濃縮する場を主体的に作っていくことが、地方にとって非常に重要なことだと感じますね。

Know-Who ~誰と繋がるか~

ー人材の層が薄いからこそ、出会いの場を作っていくことが大事ですよね。ちなみにビジネスだけでなく、キャリアという観点では何が重要になってくると思いますか?

もちろんコミュニケーション能力や知識は必要なんですけど、これからの時代で最も重要なのはKnow-How(ノウハウ)ではなくKnow-Who(ノウフー)だと感じますね。

つまり“誰とつながって巻き込んでいけるか”が大事ということです。

バーチャルにネットでつながっていく時代だからこそ、本当に一流の人とどれだけ信頼関係を持っていられるかが、自分の成長や情報獲得、様々なチャンスに繋がってくると思います。
いわゆるソーシャルキャピタル(社会的関係資本)といわれるものが、圧倒的に大事ですね。

ー単にスキルが高いだけだと不十分ですよね。

そうですね…知識や情報を持っているのは当たり前で、その上で、誰を動かして巻き込んでいけるかが大切です。一流の人と付き合えるために、自分自身も成長することが必要だし、若い頃にはそういう人たちにいかに可愛がられるかなども同時に重要なことですね。

ーどうすれば、かわいげのある人間になれますかね(笑)?

まずは自分自身の生き方や価値観をしっかり持つことでしょう。そして、他人の意見に寛容で、複眼的に物事が見れるかとか、そういうことが可愛がられる要素になってくる気がします。

ちなみに私がリクルートに行こうと思った理由も、このKnow-Whoという考えがベースにあって、やっぱりリクルートで会う人達は、学生の目から見ても凄いって感じたんですよね。

そういう一流と思える人達から薫陶を得られる機会があるからこそ、リクルートに惹かれていきました。正直、リクルートの事業が何をやっているかはどうでもよかったんですよ。

ー人に惹かれた部分が大きかったんですね。

どのような人と一緒に仕事をするかという事は、自分の成長や学習において非常に大きかったですね。実際、学習論の観点からいう社会人の成長や学習の機会って、仕事経験が7割で、2割が他者からの薫陶、残りの1割が自己啓発や研修に分けられるんです。

だから、1年で5年分くらいの仕事経験が得られ、かつ自分が尊敬できる人が社内に沢山いて、その方々から薫陶を得るチャンスがあるという2つの要素がそろっていたことは、リクルートに入社する上で大きな魅力でしたね

ー現在の学生がファーストキャリアを選択する上でも、非常に大事になってくるポイントですね。

そうですね。責任ある魅力的な仕事を任されることや、優秀な人たちがいる環境で薫陶を得ながら働くことは、やはりその人の成長や学習に著しく関わってくるので。

成長志向や自己実現欲求が高い人にとっては、20代のうちからそういう経験を積める会社を模索していくことが、ファーストキャリアを選択する上で重要だと思います。もちろん成長志向がそこまで高くない人は、その人自身の価値観や生き様をレビューしておく必要があります。
ネームバリューやブランドで選んでも、自分という人間にマッチしていなければ悲惨なことになると思うので、そこは気を付けて見極めなければいけないですね。

ー単に比較するだけでなく、自分の価値観を明確にして、照らし合わせてみることが大切ですよね。

そう思います。学生の方々はもちろん、社会人になっても、自分がどんな環境で、どんな風に成長していきたいのかを考えて続けていくことが大事だと感じます。

ー凄く共感しました。貴重なご意見、ありがとうございます。それではインタビューは以上になります。本日はお時間をいただき、ありがとうございました。

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